CHIANG MAI(チェンマイ)

1月14日(火) チェンマイ到着


5時ごろ目が覚めた。窓の外は真っ暗だったが冷えるらしく窓ガラスが曇っていた。7時前、朝もやの中に広々とした田舎らしい風景が見えてきて少しほっとした。MINEの大学時代の友人の娘さん(尚美さん)がこの町に住んでいるので、何かと心強い。

駅前から白タクで予約してあったホリデーガーデン・ホテルへ行った。ここもインターネットで5泊予約し、バンコクよりも安い2900円なのでどんなホテルか心配していたが、まあまあのホテルだった。リゾートホテルらしく中庭にプールがあり広々として緑も多く気持ちよかったが、安いだけあって町の中心には遠かった。早速部屋に入りシャワーを浴びて一眠りした。

昼から長期滞在用のコンド・テル(コンドミニアムとホテルの両方の機能をもつ宿泊所)かサービス・アパートメント(ホテルのようなサービスを提供するアパート)を探しに出かけた。1月17日まで今のホテルを予約してあるので、1月18日から2月1日までの15日間の宿泊だ。

チェンマイ市内の交通機関は、主にトゥクトゥク(小型オート三輪)かソンテウ(ミニバス)で走るルートは決まっておらず、乗る前に行き先を告げ値段の交渉もしなければならない。外国人はぼられることも多いし、まだ町の様子も全くわからないので、地図を片手に歩いて探すことにした。


日本で調べ目星をつけていたヒルサイド・コンドテル&プラザ4は、ホテルに一番近くすぐに見つかったが外観はとても古く、フロントの感じも悪かった。部屋が空いているか聞くとそっけなく「full」とだけ答えた。次のチェンマイ・パシフィック・マンションは観光の中心ターペー門の近くにあり、少しうるさかったがセキュリティーもよかった。借りてもいいなと思ったが1月21日から31日までしか空いてなかった。20日に電話すると言って帰って来た。今観光シーズンでどこも満員のようだ。

帰りは向こうから声をかけてくれたソンテウに乗った。ホテルの名刺を見せるとウンとうなずいたので、いくら?と聞くと40と答えた。高いかな?と思ったが初めてで値切れなかった。

 

1月15日(水) ホテル探し


今日もホテル探しに出かけた。ソンテウを止め昨日と同じ場所まで行ったが40バーツと言ったので20バーツ、OKと聞くとうなずいた。案外簡単に値切れるものなんだ。

ガイドブックと地図を片手に条件に合いそうなホテルを回った。まず日数を言い、値段を聞き、空いていれば部屋を見せてもらった。全部で6件のホテルを回ったがすべて帯びに短したすきに流しだった。値段の高いスイートルームや安くてなんとなく薄汚れた部屋は空いていたが、私達が満足できるような部屋は、満員だった。うまくいかないものだ

ホテル探しであちこち歩いたがチェンマイも埃っぽく車も多く、ざわざわしていて落ち着けそうな町ではなかった。ガイドブックには美しい古都で100を超える寺院があり、崩れかかった城壁や城門、堀があり・・・と書いてあったので、京都をイメージしていたががっかりだった

確かに寺院は多いがモザイクタイルで輝いていてあまり好きではない。城壁も残っているのはわずかで保存状態は悪い。でも旧市街や新市街を歩いて欧米人の多さに驚いた。どこへ行っても日本人に会うが、ここでは欧米人の方が多いと思った。何が彼等をひきつけるのか?治安のよさなのだろうか?それとも単に生活費が安いからなのだろうか?




1月16日(木) 尚美さんに会う

午前中ホテルでゆっくり過ごした。MINEはHPの作成、HARUは近くのクリーニング屋に洗濯物を出しに行きその間コーヒータイムで時間を潰した。クリーニング代は3〜4日分の下着類、パジャマ2着、ブラウス、ポロシャツ、ジーパン等アイロンかけも入れて150バーツ(450円)。そのおかげでMINEは洗濯おばさんから解放された。

昼からカットに行った。セントラルデパート近くのガラス張りのおしゃれな店に目をつけていた。MINEの髪は硬く多いので、いろいろと注文をつけなければならない。カナダでは日本人の髪を初めてカットした美容師らしく、注文をつけても不器用で希望したヘアースタイルにならず気分が悪かった。ここでは簡単に言っただけなのに自信ありげにカットし始め、やり方は日本と同じで器用で丁寧だった。ああ、同じアジア人だと妙なところで感心した。シャンプー・カット代は2人で600バーツ(1800円)、これも満足だった。


その後ホテルの予約のために旅行代理店へ行った。直接ホテルへ行くよりも代理店を通すほうが安いと本に書いてあったからだ。代理店のお姉さんにいろいろ条件を言い電話で問い合わせてもらったが、1つのホテルに連泊できずその上28日から31日までどこも空いてなかった。困った顔をしていると、「安全で清潔なホテルがあるから紹介してあげる。明日の11時にもう一度来て。」と言われた。半信半疑だったが悪そうな人ではないので信じることにした。ちなみに代理店を通すと本当に安く、日本で予約するよりも半額で泊まれるホテルもあり驚いた。

夜7時、尚美さんと彼に会った。彼女はMINEの大学時代の友人の娘さんで、学生時代からタイに魅せられてチェンマイ大で学びそのままタイに住みつき、今はホヤガラスに就職している。尚美さんの幼い頃に2〜3回会ったことがあるが、自分をしっかり持ち素敵な女性に成長しているのでうれしかった。

ホテル近くのタイレストランに連れてもらい、チェンマイのことをいろいろ教えてもらった。尚美さんの彼はコンピューター関係の仕事をしているが、建築のことに興味がありHARUと話が弾んだ。(通訳の尚美さんは食べる間もなく忙しかった。)帰りにナイト・バザールを一緒に見て回り、次に尚美さん達の家を訪問する約束をして別れた。

 

1月17日(金) 次のホテル見つかる

トゥクトゥク
で昨日の旅行代理店へ行った。昨日の人はいなかったが、伝わっていたらしくホテルのパンフレットと名刺をもらい自分達で下見に行った。

ホテルは International Center Hostel でチェンマイ大学の構内にあった。普通のホテルのような華やかさはないが、部屋は広く清潔で明るかった。TV、冷蔵庫は勿論のこと電気ポットもありインターネットもできるのでよかった。(ホリデー・ガーデンでは繋げなかった。)レストランは学食のような感じで飾りっけもなかったが、メニューの種類も多くあり日本語で書いてあるのがうれしかった。

ホテルの前にはフィットネス・パークがあり緑に囲まれ、多くの人がジョギングしたりバトミントン等をしていた。大学の構内なので広々としていて、環境もよさそうだ。フロントの人も感じよく1月18日から2月1日まで連泊できるのでここに決めた。料金は2人で朝食付き700バーツ(2100円)だった。泊まるところが決まりほっとした。 

その後尚美さんに教えてもらった1時間100バーツの(300円)のマッサージに行った。地元の人向けなので安いのだろう。腰の痛いHARUは毎日行くと言って喜んでいる。

 

1月18日(土) IC(International Cernter)ホテルへ

ホリデイガーデン・ホテルを出てすぐにICホテルに行った。昨日泊まる日数を言ったのにフロントの人が変わり伝わってないようだ。チェック・イン時に書いたのは名前だけで、住所も書かないしパスポートの提示もなかった。お金を払おうとしたらチェック・アウトの時でいいと言われ、すぐに朝食のクーポンをくれた。お金も払ってないのにただで泊めても大丈夫なのか?まったく人間性善質による経営だ。そういえばスタッフ全員が暖かいもてなしでとても好感が持てた。

部屋に入り早速PCを繋ごうとしたが、1時間やってもなかなか繋げなかった。大学構内独自の電話回線らしく、部屋から外線に繋がらないのだ。こうなるとMINEはお手上げだ。仕方なくフロントに行きつたない英語で事情を話すと、ここに日本語バージョンのPCがあるからそれを使ってもいいと言う。見ると10台くらいPCが並んでいて、数人が使っていた。ウェブ・ページがあるので自分のPCを使いたいと言い、PCの詳しい人に手伝ってほしいと頼んだ。2人の男性のスタッフが部屋に来て、電話を繋いでくれた。ちよっとした操作で簡単に繋げとてもうれしかった。この間、4〜5人の人がいやな顔もせずに私達の言うことを聞き、何とかしようとしてくれた。対応もソフトで話し方も物静かだった。ますますこのホテルが気に入った。

その後ホテルの周りを散歩した。前のフィットネス・パークでは30人くらいの人が集まって太極拳をしていた。聞くと毎日やっていて自由に参加していいと言うので、参加することにした。また大学の周りらしくおしゃれな店が多くあった。日本のNGOが山岳少数民族の援助のために経営しているLanna Coffeは味も雰囲気も良く常連になりそうだ。日本の新聞をゆっくり読める高級ホテルも近くにあり、毎日退屈せずに暮らせそうだ。



1月19日(日) 近くの市場へ

 
ソンテウで10分ほどの賑やかな所にセントラルデパートがあり、その地下に日本食を売っているスーパーがあった。それだけ日本人が多く住んでいるということだろう。スーパーはどこも同じなので、もっと庶民の生活がわかる市場を探して行った。

商店街の一角にあり日本の昔のような感じで、入り口は足元がぬれたり、ハエが飛び回ったりして市場独特の匂いがしていた。野菜、肉などは日本と変わらないが果物は種類が多くほとんど知らなかった。

惣菜の種類も多くあり、汁物もそのままビニール袋に入れて持ち帰るのにびっくりした。蚕の幼虫、さそり、イナゴのから揚げなどが並んでいて、気持ち悪く慌てて外へ出た。

タイは屋台が多くどこでも簡単に軽く食事ができるが、雑踏の中の屋台で食べるのはまだ抵抗がある。大きなショッピングセンター等にあるクーポン食堂は、屋台が集まった感じだがビル内にあるので清潔そうだし、指差すだけで注文できるので気楽だ。先にクーポンを買いずらっと並んだ店で料理と引き換えにその値段のクーポンを渡す。あまったクーポンはその日なら払い戻しでき、便利で私達も簡単に利用できるようになった。。



1月20日(月) ドイ・ステープ観光へ




観光らしいことは何もしていないので、チェンマイ唯一の名所と書いてある標高1080mのステープ山に行った。ここまで来ると木々が多く見られたが、今は乾期で雨がなく埃っぽく、空気もおいしいとは思わなかった。

頂上にはワット・プラタート・ドイ・ステープと言う黄金に輝く寺院があり、タイ北部の最も神聖な寺の一つらしく、観光客とお線香を持ったお参りの人が多かったが、私達はあまり難味を感じなかった。頂上から市街を眺めたが、排ガスのためか空がどんよりと曇りまったく見えなかった。日本もかなり空が汚くなってきているが、ここほどではないと思った。

夕食は日本人経営の「宇宙堂」というレストランへ行った。いくらタイ料理が口に合うと言っても、やはり日本食が一番おいしい。ハンバーグ定食やコロッケ定食を食べ久しぶりに満足した。

 

 



1月22日(水) チェンマイ大日本祭りへ


ここで発行されている日本語新聞で、チェンマイ大学の日本語学科主催の日本祭りの記事を見つけ参加した。大学内を走っている無料の循環バスに乗ったが、どこで降りるのかわからずそのまま乗っていたら、日本語学科の女子学生が恥ずかしそうに声をかけてくれ、案内してくれた。

その子は1年生で少ししか日本語を話せず、先輩に日本人を案内してきたと言ったが皆知らん顔で誰も話し掛けて来なかった。多分恥ずかしいのだろう。やはりアジアだなと思った。これが北米の学生なら自信がなくとも話し掛けてくると思う。学生はどの子も素朴そうで飾りっけなく日本の学生とは比べ物にならないほどまじめそうだった。

お好み焼き、焼き鳥、カレー、巻き寿司などの食べ物を作ったり、浴衣を着せて写真を写したり、書道、折り紙を折ったりして他の学科の学生に日本文化を紹介していた。私達が来ているのに日本語で話し掛けることもなく、自分達が楽しんいるだけで残念だった。1月31日に4年生が日本語でチェンマイを案内してくれるツアーがあるのでそれに参加することにした。

夕方、日本人サークル「もういい会」と言う会合があり誰が参加してもいいので、興味半分で行った。40人くらい集まったがほとんど男性で、相当に個性が強くアクも強い人ばかりで驚いた。ここに住んで11年になると言う70歳くらいの男性は、「この国は何でもありですよ。」と言い、1ヶ月前に山岳民族のリス族と結婚しもう後悔していると話してくれた47歳の男性は、結婚式の様子を詳しく教えてくれた。1月末に嫁が村に帰るので興味があればいっしょにと誘われたが、村にはトイレもなく民家に泊まるので、のみしらみがいるが長袖、長ズボン、手袋をして寝たらいいといわれたが遠慮した。聞いているだけで体が痒くなりそうだった。

MINEはチェンマイのどこが良くて住んでいるのかと聞きたかったが、聞くまでもなく生活費が安いから!と言われそうだった。実際ここの3人家族の1ヶ月の生活費は最低1万バーツ(3万円)と書いてあった。日本人の現地採用の給料を見ると3万〜5万バーツ(9万円〜15万円)とあるからそれくらいで十分生活できるのだろう。日本人のロングステイヤーが多いのもうなずける。

 

1月23日(木) チェンラーイ付近1日ツアー

チェンマイ滞在中に是非行きたかったのがもっと北にある町や村だった。その中心になるのがチェンラーイで初めは汽車かバスで行き、そこを拠点に近辺の町や村を訪れるつもりだった。しかしバスの便は悪く、おまけに田舎となるとタイ語しか通じないのでは・・・等と考えると怖気づき簡単に行けるツアーを利用した。朝7時30分、ホテルに迎えのバンが来た。参加者はギリシャ人、フランス人、インド人、そして私達の9人だ。チェンラーイまで約3時間、バンは110〜120キロのフルスピードで走り少しでも前が空いていれば、どんどん車を追い抜いていく。この国の運転はとても荒っぽく乗っているのが怖いくらいだ。

一番最初に着いたのがタイとラオスを隔てるメコン川とタイとミャンマーを隔てるルクア川が合流するゴールデン・トライアングルだった。昔は3カ国にわたる世界最大の麻薬マーケットで恐ろしい所だったが、今はのんびりとメコン川が流れ、目の前にラオスの川岸が見えるのが不思議な気がした。そして遠くに見える赤い屋根がミャンマーだと言われても、ピンと来なかった。

 



次にタイ最北端にあるミャンマーとの国境の町メーサイに着いた。ミャンマーに向かって伸びているメイン通りの突き当たりが国境にかかる橋で、その橋の両側にそれぞれの国の入国管理事務所や税関があった。同じツアーのフランス人の若い子たちは、250バーツ払ってパスポートを持ち30分だけミャンマーに入国し帰ってきた。ミャンマーで買ってきたお菓子をみんなに配ったが、薬のような味で食べられず、皆にごめんねと謝っていた。

ミャンマーは物価が安く、タイ人も国境を越えて買い物に行くらしい。橋の下を流れている川は幅も狭く、今は乾期で水も少ないので歩いて渡れそうだ。お互いの国の人はどんな思いで毎日この川を眺めているのだろう。

バンコクにもチェンマイにも物乞いの人が多かったが、この国境の町は赤ちゃんをおんぶした子供が、両手を合わせて目で訴えるように物乞いし後を付いてくる。こんな小さな子が・・・と思うと堪らなくなってしまうが、この子の将来のことを考えると、あげていいのかあげない方がいいのかわからなくなる。いつも悩む問題だ。赤ちゃんが民族衣装を着ていたので、写真をとるからあげるねと言っていっしょに写真をとった。言葉が通じるはずもなくMINEの自己弁護だと思いながら・・・。

 


最後に山岳民族が暮らす山あいの村メーサロンに行った。山道に入りカーブの連続のでこぼこ道を走り抜け、両側に田んぼやとうもろこし畑、竹林を見ながら走ると、道の両側に粗末な掘建て小屋が並んでいる所についた。チベットから来たアカ族の集落だ

電気は通っているものの、トイレはなく、水道も1ヵ所しかないらしく2〜3人が水汲みに来ていた。昔ながらの貧しい生活の様子で、銀貨やボタンなどで飾られた円錐形の民族衣装の帽子をかぶったおばさんが、手作りの土産物を売りに来て、買わないとわかるとフォト、フォトと言ってくる。いっしょに写真を写すと、テンバーツ、テンバーツとお金を要求する。仕方がなくお金を渡すと、黙って写真をとった他の人を追っかけて要求している。たくましいこと!でも現金収入はこれくらいしかなく必死なのだろう。

バンで10分ほど走ったころ次の集落に着いた。中国南部から来たヤオ族だ。漢字を使い山岳民族の中で唯一書き言葉があるとされる。道の両側に店が並び、刺繍つきの紫紅色のマフラーのような襟付きの上着を着て、小物に器用に刺繍をしていた。目が合ってもにこっと笑うだけで物乞いのようなこともしなかった。書き言葉があるだけで人間にこんなにも差があるのかと驚いた。

夜、8時前ホテルに着いた。12時間近くのツアーだった。チェンマイも一歩郊外へ出ると田舎の風景が見られ、日本の昔のような貧しく汚い家が多いと思った。大部分が伝統的な高床式の家で、その中に隣と釣り合わないような白壁の近代的な家があったりする。そんな家を見ると日本へ出稼ぎに来てSEX産業関係の仕事に就き、身を粉にして働いて仕送りしたお金で建てたのではないかと考えてしまう。何ともいえない複雑な気持ちだ。

 

1月25日(土) 尚美さん達の家へ

今日は尚美さん達が休みなので、友人の車を借りてホテルまで迎えに来てくれた。まず空港近くの水耕栽培の野菜のおいしいレストランへ連れてもらった。なかなか素敵なところで外食ばかりで野菜不足の私達には有難かった。お母さんの友人と言うことで尚美さんも彼も相当気を遣ってくれていると思う。

それから家へ行った。海外旅行をし豪華ホテルに泊まり観光地だけ見て回るより、現地の人の生活ぶりを見たり人と触れ合ったり・・そんな旅をしたいと思っている私達には、家を見せてもらうのはうれしかった。家はホテルから車で15分くらいの大学に近い雑木林の中にあった。

昔ながらの高床式屋根はトタン、壁は竹か何かで編んだ物が張ってあった。古家を修理してもらいドアや窓枠を直したらしいが、床は歩くと揺れるような板張りで敷物を敷いてあった。正直言ってこんな家?・・・と驚いた。ふと見ると壁にヤモリが張りついていた。でも中に入ると狭いながらもきれいに整理してあって、しばらくするとなんとなく落ち着いてきた。

彼女達と話していると無理もせず自然体で暮らしていて好感が持てた。以前の私達だと日本人的な目で見てしまい、可哀想にこんな家で・・・と思ったに違いない。でも今は、自分が納得し満足していたらそれでいいのだと思うようになった。4月に日本に帰国する彼女達を和歌山の田舎の家に招待し、また会えるのを楽しみにしている。

 


1月26日(日) スコータイ遺跡へ1泊旅行

朝6時起床。8時発のバスに乗るため早めにホテルを出る。日曜日の早朝なのでなかなかソンテウが見つからず焦る。やっと1台見つけバスターミナルの名前を言うと同時に、ホテルのスタッフにタイ語で書いてもらったメモを見せ、しっかり行き先を確認し値段の交渉。行き先を間違うのはもうごめんだ!30分前にバスターミナルに到着。



切符を買いに窓口へ行くが、窓口がずらっと並んでいてタイ語ばかりで読めない。窓口で言っても通じずインフォで聞くが、教えてもらった場所がわからず慌てて探し回る。そんな私達を見ていたのか、どこかのおっちゃんが来て何か言っている。スコータイ、スコータイと言うとこっちと手招きし窓口まで連れてくれた。よく見ると英語でSukhothaiと書いてあるではないか。あーあ、疲れた。それにしてもタイ人はなんて優しいのだろう

無事にバスに乗るが乗客は、地元の人がほとんどで外国人は白人4人グループと私達だけ。バスの乗務員も英語が通じず、切符を見せスコータイと言うとうなずいたから大丈夫だろう。バスは2等のクーラー車でそんなに暑くないのに、クーラーをがんがん効かせ冷蔵庫の中のように寒い。持っている物を全部着るがそれでもだめ。我慢できなく車掌が切符を調べにきた時に、ジェスチャーで寒いと訴えるが笑うだけで弱めようともしない。タイ人は皮膚の皮が厚いのだろうか?

路線バスなので途中で何回も止まるがどこでトイレに行っていいかわからず、HARUは腕時計を見せ文字盤を指して時間を聞き交代でトイレに行く始末。トイレは有料で3バーツ払うが勿論紙はないし、足元は水で濡れ汚いこと。タイのトイレは使用後の紙は便器に流せず備え付けのごみ箱に捨て、水は流せる所もあるが、ほとんどが便器の隣に水を貯めておく物がありこの水を汲んで流す。ホテルやショッピングセンターなど、新しいところは普通の洋式トイレだが、大部分がタイ式トイレでトイレに行くのが億劫になってしまう。5時間後やっとスコータイと思われる所に着き、4人グループの白人が降りたので私達も続いた。


 


ホテルに荷物を預け早速ローカルバスに乗り、公園入り口まで行き自転車を借りた。スコータイは13世紀から15世紀中頃まで、約200年にわたって続いたタイ族最初の国家でユネスコの世界遺産に登録されている。遺跡郡は城壁内と城壁の外に別れ相当広いので、今日は城壁内に行った。

城壁内だけでも36ヵ所の遺跡があるが主なものだけ見て回った。スコータイで最も重要な王室寺院であるワット・マハタートは柱の間に納まった高さ8メートルの仏像や、高いレンガの土台に座り風雨にさらされる巨大な仏像は圧巻で、アユタヤ―よりも古いのに保存状態がいいのに驚いた。

とうもろこしのような形をしているワット・シー・サワイのプラ―ンや池に浮かぶ島にあるワット・サー・シー等をじっくり見て回った。ワット・サー・シーでは夕方から踊りがあるらしくきれいにお化粧をし民族衣装を着た高校生が集まり始めた。ローカルバスの最終が6時なので見られず残念だった。暑い中、自転車で走りまわり疲れたが、遺跡の周りには芝生が植えられ、池にはハスの花がきれいに咲きそれらを見ながら走るのは気持ちよかった。



 

1月27日(月) スコータイ遺跡めぐり


午前中、城壁の外を見て回った。まずワット・プラ・パーイ・ルアンへ行った。3基あったプラ―ンのうち残っているのは1基で、表面には細かい彫刻が施されていた。

次にワット・シー・チュムへ。屋根のない本堂の狭い空間に高さ15mの仏像がどっかりと座っている姿は、大変すばらしかった。レンガに漆喰をかけて造られていて、50年ほど前に修復されたらしい。真下から見上げるのと、少し離れて見るのとでは仏像の目線が違い、MINEはこの角度から見るのが好きで、これを見ただけでスコータイへ来たかいがあったと思った。

大部分の観光客はツアーバスで見て回り、自転車で回っているのは10人くらいだった。その中でたった一人、日本人の男性に出合った。ベトナム人のような帽子をかぶり、顔は真っ黒、髪、ひげもぼさぼさ、服も汚れカメラだけは一眼レフの高級カメラを持っていたが、日本人には見えなかった。ゲートで尋ねている英語を聞いて、HARUが日本人だとわかり声をかけた。その人はインドにはまっていてインドからバンコクに入り、今朝スコータイに着いたらしい。バンコクではゲストハウス(安宿)に泊まり、鍵をかけ忘れたので寝ている間にお金を取られたと話してくれた。地図もないのにこの後カンボジアのアンコール・ワットを見に行くと行っていた。日本人でもこんなに図太い神経の持ち主でないと、本当のアジアを見ることが出来ないのだろうと思った。1時30分チェンマイ行きのバスに乗り、7時頃無事チェンマイに着いた。

 

1月31日(金) チェンマイ大生の日本語ツアーに参加



チェンマイ大日本語学科4年生によるガイドの観光ツアーに参加した。集まった日本人は30人以上。私達のグループは日本人7人とガイドの学生3人だった。ソンテウに乗り市内のワット・プラシンやワット・クー・タオ、山岳民族博物館を案内してくれた。3人の学生はそれぞれ持ち場を決め日本語で案内してくれたが、たった4年しか日本語を学んでいないのに上手に話すのに驚いた。チェンマイ大は国立で優秀らしく、そのうちの一人の女子学生はホヤガラスの通訳に就職が決まり、初任給が1万バーツと言っていたからエリートなんだろう。

同じグループの日本人はチェンマイにロングステイしている人達で、タイの文化や歴史についてよく知っており、反対に学生にタイの歴史を教えたりする場面もあった。また何人かはYMCAでタイ語を学んでいて、学生とタイ語で話すので私達2人だけが何を言っているのかわからず、日本語に訳してもらったりした。

観光ツアーが終わった後日本人と話をしたが、「もういい会」で出会った人達と違いそれぞれタイ語や英語を勉強したり趣味を持って生活しているようで、教えてもらうことも多く話していて楽しかった。

 


2月1日(土) チェンマイ最後の日

今日はチェンマイ最後の日ということで、近くの商店街を歩いたり屋台をのぞいたりした。屋台も初めは埃っぽくて抵抗があったが、店によって清潔なところもありそんなところでは食べられた。また、お菓子もあまり甘くなくもち米の蒸した物や、バナナの焼いた物、ナイトバザールで食べた揚げ団子のようなものもおいしかった。初めは埃っぽい町でここに住みたいとは思わなかったが、住めば都で慣れもあるのかだんだんよくなってきた。

2月2日(日) 再びバンコクへ
朝9時20分のスプリンターでバンコクに向かった。スプリンターはタイが誇る特別急行で機内食のように朝食、昼食、3時のおやつまで出るサービス振りに驚いた。11時間も乗るのでパンや飲み物、果物等を用意したのに無駄となった。

チェンマイに来るときは夜行で外の景色が見えなかったが、今度はイヤと言うほど移り行く景色を堪能した。広々とどこまでも続く水田と所々に立っているやしの木バナナの木。まるで海と見間違うほどの広い河とあちらこちらで見られるエビの養殖風景。タイの自然は豊かできれいだった。40分遅れでファランポーン駅に着いた。

 

2月3日(月) バンコクからバタワース(マレーシア)へ



約1ヶ月滞在したタイを去り次の滞在地、マレーシアのペナンに向けてファランポーン駅を発った。前回は乗り遅れたので今度は失敗しないように、1時間も早く駅に着いた。

列車はバンコクを午後2時40分に出発し、翌日の午後12時40分にマレーシアのバタワ―スに着く寝台車で、国際列車だから奇麗だろうと期待して乗ったが車両は古く席も狭くがっかりだった。おまけに中国正月(2月1日〜2月3日)で田舎に帰る人が多く、両手に一杯の荷物を持ちその上ダンボール箱を2〜3個座席の横に高く積んでいて、通路も通れないくらいだった。

中国系のおばさん達はたくましく、常に何か食べながら大声でしゃべっていた。駅に着き売り子が乗って来る毎に次から次へと物を買い、置き場所がなくなると網棚に吊り始めた。降りるときあの荷物をどうして運ぶのだろうと人事ながらMINEは心配した。

乗ってしばらくしてから車掌が切符を調べに来た。どうもお金を集めているようなのでタイのお金を奇麗に使ってしまい、あと50バーツ(150円)位しか残っていないのでどうしようかと心配した。そして車掌が来て切符を切り何か言って60バーツをくれた。えっ?と隣の白人を見ると彼も20バーツもらい首をかしげていた。訳がわからなかったがくれるんだから喜んでもらった。よく見ているとこの車両に乗っている全員に配っているようだった。後でHARUが隣の車両を見て、隣と大違いや!と言って帰って来た。これで疑問は解けた

夜7時ごろ、何もすることがないので寝るしかなかった。列車の音を聞きながら何時の間にか寝てしまった。

 


            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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